◆観音講・精進講・山の神講
・観音講と言って、ガガ様【奥さん】どが集まって、煮たり焼いたりする。
八日泊まった。ジョウヤずうとこがあってそこに。仕事しないで、飲んだり食ったり。
今は自然となくなった。(米小仮設にて)
・お精進講。「オショジンコ」って語んだけどね。
私たちの世代が最後。昭和三十年代。私たちが小学校の低学年くらいまで。年配の人達は後もやってたの。子供はやめたの。年配の年寄と、ががさまグループと、若妻と、子供たちで、日が全部違って。年寄(としょ)りはほら、嫁の顔見なくて済むし、若妻だって年寄(としょ)りの顔見なくていいし。そういう場だったの。名目がオショウジンコだったのね。
三日ぐらいしてました。ぎっちりやるんですよ。年寄りは泊まんないけど。
子供だちだけはなぜか泊まって。先輩だぢから、「こう料理すんだぞ」とか、やれとか、こう上下関係教えるんだっけ。中学校には【その年代になると】もうはぁ、ご飯は作れてるから。米と野菜と薪は持ち寄ってね。そして調理。ジョウヤってとこに私たちは泊まったの。
中学校三年生が頭になって。そして小学校一、二年は、寝しょんべんたれたり泣いたりするから帰る子もいるけど、泊まってもいい。ふとん持ってく。囲炉裏があるから温かいの。二十人くらい。各地区で。矢の浦(だ)と私たち【獺沢(うそざわ)】は別。合わせて一つの大きな公民館はあるんですよ、でも、別々の一つずつのジョウヤってのがあって。私たちの時、冬休み【にやった】。子供会ってあったからさ、冬休み行事あったんだよね。我々これ子供会行事としてやったからね。(米中仮設にて。小友町獺沢での子供時代のお話。)
・我々は十年くらいやったのかな、山の神講ってね。子供たち連れてきてね。こんなな小さい子どもたちも連れて来てね、若妻と。年寄りと。子育てについて話聞けるからね。私たち、やさしいから、赤ちゃんある人達あまり動かせないで、働ける人動いて。子育てしてる人は常に動いてるから、休ませたの。二十代から四十代全般くらいだね。保育園の子供有れば連れてくる、一年生くらいの子供あれば連れてくる、そして飲んだり食ったりしてね。夜十時頃までやったのかな。ま、何もないから。こたつさ入ってね。二月の十一日。仕事がない時期にやったのね。そして、珍しいものそこでは作ったりして。部落からお金でるから。そこでは、部落でこういうことやんねばなんねえよお、ってまた教えるわけ。
・浜人(はまど)の人達やってんだよね、男の人達ね。一月の十六日だったか。観音講。釜の蓋も開くってね。
・餅おいて、こうしてあぶると、お煎餅ができるの。煎餅機械【煎餅焼き器】持ってね。
「あの、もうしわけないけどあれ貸してけらっせん」って一軒に一つしかないそれ借りてきて、餅っこ、これくらいに切って、こうして合わせっと、煎餅ができるのね。
だから、その家さ行って借りると、家も覚えっがすと。(米中仮設にて)